我々の生活空間で、他人に場所を教えなければならないとき、「手段」として使う物理的な目印と同時に、それを使って場所を指示する「方法」が必要です。座標系とは、この手段と方法とを定めるシステム「系」です。したがって、座標系の概念そのものは人類の文化とともに古くからありました。直交する座標軸を考えて平面上の点の位置をx座標とy座標とで与えるのが座標幾何学(coordinate geometry)です。直交する座標軸が物理的手段であり、点の場所を(x、y)と表すことが方法になります。この直交座標系のことを、座標幾何学の創始者であるデカルトの名前を付けてデカルト座標系(Cartesian coordinate system)と言うことがあります。
座標系は、まず、すべての元になる座標系がすでにあると考え、これを世界座標系(WC: World Coordinate System)とします。この世界の中に、自分に都合のよい局所座標系(LC: Local Coordinate System)を考えます。世界の基準をどう考えるかは、実は大変重要な宗教上の問題でした。自分のいる場所が世界文化の中心であるとする中国の中華思想と似た考え方は、世界中の多くの信仰や信条に見られます。天動説と地動説との対立はその最も有名なものです。世界をどうとらえるか、という宗教的で哲学的な論争は現代の自然科学にはそぐいません。しかし、幾何の歴史が古いこともあって、幾何学では論証の方法が非常に大切な研究になっています。
我々の身近な世界を考える場合には、宇宙論的な世界を考える必要はありません。世界座標系を理解するには、町の地図を念頭において、道案内に例えて説明するのが分かり易いと思います。町全体を表す地図を考えます。京都市や札幌市のように方眼上の街路で区画された町では、直交座標系を連想することは容易です。この街路の番地表示法が世界座標に対応します。この世界座標は向きの定義があって、東西南北を考えに入れています。そのため、京都市では、上り下りは北行き南行きと同義です。住所を人に教えるとき、住所の所番地で指定するのが世界座標を使う方法です。しかし、道で人に目的地までの道順を教える場合、現在いる場所を基準として、相対的に方向を示すのが普通です。道順の教え方は世界座標系と局所座標系とを使い分けた二通りの方法があります。一つは、今いる場所に世界座標系のコピーを当てはめた局所座標系を考えて、「北へ何メートル、東へ何メートル行って南側」のように教える方法です。二つめは、「真直ぐ何メートル行って、右へ曲がって何メートル、左側の、銀行から数えて三つ目のビル」のように言う方法です。後者の方法は、人自身に局所座標系を持たせ、左・右・正面の区別を使います。この座標系は移動したり向きが変わり、向いた方向で左・右・正面の定義が世界座標系の中で変わります。
道順を教える場合、我々は何の疑いもなく左とか右とかの用語を使いますが、世界の何百もある言語種類の中には、左とか右を示す語彙のない言語があるそうです【もし「右」や「左」がなかったら、井上京子、大修館書店、1998】。そのような言語は、大平洋の海洋民族の言語や、オーストラリア原住民の言語に見つかっています。どちらも広い海洋や大陸が居住空間になっているので、身近に目標を定める事物がありません。太陽を基準とした絶対的な東西南北の向きを、身近な位置を表す基準にも使うのだそうです。右手系の直交座標系という定義方法そのものも、言語文化と密接に繋がっています。さいわい、日本語もヨーロッパ系の言語にも左右を表す語彙があり、また感覚も共有できます。しかし、「縦・横・高さ」となると、欧米語と日本語とで言葉の感覚に微妙な相違が出てきます。例えば、矩形の面積の計算は、日本では「縦×横」という言葉で表しますが、欧米語の翻訳からきた用語では、「幅×高さ」と表現します。良く考えてみると、「高さ」という言葉の使い方が、日本語の用語感覚と合っていません。
幾何では、向きを考えに入れて、前後・左右・内外・上下・表裏などの区別または約束をする必要が頻繁に出てきます。これを位相幾何学(トポロジー)的な性質と言います。この性質を代数的に扱うときは、適当な数値を使って、符号の正負および0を当てます。座標系を決めるとき、向きの定義が違うと、式の表現方法も異なり、代数計算の符号が反対になったり、結果が全く別の解釈になったりします。そのため、座標系の定義や向きの約束には慎重であるべきです。しかし実情は、座標の決め方が恣意的であることもあって、思わぬところで定義の違いが混乱を引き起こしています。
次のページ